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お便り集

ロイヤルハウスとの出会い

ご入居者ご家族 田谷 多枝子様

 「特養老人ホーム、デイサービス、ショートステイ」
 都内有数の大学付属病院の精神科で、おそらく医科長と思われる、恰幅のいい医者から、母の背中越しに、こんなメモを渡されたとき、正直言って、私は何のことか、さっぱり分かりませんでした。
 「とにかく、区の社会福祉課にすぐ相談に行きなさい」
 医者はそう言い放ったきり、次の患者を室内に招じ入れていました。延々と三時間も待たされたあげくのことです。
 「私、試験全部できたよ。満点取れたよね」
 和田式とかいう、痴呆度テストを受けた母は、得意満面。嬉しそうに振り上げる、その手を引っぱりながら病院を出るとき、私は足下から床が抜け落ちるような気持ちでした。理解できたのは、何か気の遠くなるほど恐ろしいことが起きたということだけでした。

姉の死をきっかけに、理性を失い始めた母

 その数日前、母は家出らしいことをやっていました。真夏の、暑い真っ昼間に、突然いなくなった母を、父と私は、当然近所に買い物に行ったものと思いこんでいました。それがそうでなさそうな気配を感じたのは、私が洗面所に入ったときです。洗面台の下に、山と積まれたスーパーのサンドイッチのお皿。電気ポットと茶筒と何人分もの茶碗が載ったお盆。それでも、そのときは、ナニ、コレ?と、思いつつも、最近ボケが進んできた母のことだし、もともと気前のいい母のことだから、きっと人数分を見越し、置き場所も慌てて考えずに出ていったのだろうと、単純に割り切ろうとしました。目に見えない、大勢の客をもてなすために、大量の茶碗にお茶を入れて運ぶ習慣は、それまでに何度も見ていたからです。
 そして、父と私は、そのサンドイッチをたらふく食べ、お茶をがぶ飲みしました。
真夏の空が真っ黒になっても、母は戻りませんでした。私たちもさすがに薄気味悪さを感じて、警察に捜索願を出しました。けれども、いちばん頼りにしたのは、関西に住む、何件かの親戚です。万が一のことを考え、私は午後から、母の実家である、兄や姉の家と連絡を取り合っていました。ひょっとして、母がそちらに一人で出かけていたら、着き次第、すぐ電話を入れてほしいと、頼んでいたのです。というのも、母はその直前にいちばん親しかった姉を亡くしたばかりだったからです。その姉にどうしても会いたくて、兵庫か京都に出かけた可能性もあると考えていたのです。
 夜も10時をすぎた頃、母は自分で戻ってきました。意外に、意識もはっきりしていました。暑い真夏の半日を、母は鎌倉の海辺で過ごしたのだそうです。鎌倉にはほとんど行ったことがないのに、そこを選んだのは、母が兵庫県の海辺の育ちだからでした。母はどこでもいいから、海に行きたかったのです。母はただ、手近な海辺を選んだだけだったのです。けれど、母がそこで死のうと思いながら、海水浴客で込んでいたため、死に場所が見つからなかったという話を聞いたとき、私はもう、これは家族の愛情やら思いやりの次元ではないと思いました。病院の精神科のダイヤルを回したのも、そのすぐ翌日です。

見え始めた在宅介護の限界

 その年の秋も深まり、冷たい風が吹き始める頃、今度は父が死にました。母の病状は、急な坂を転げ落ちるように悪くなっていきました。
 毎朝、起きるとすぐ、父の朝食を作るのを習慣としていた母は、そのころから不眠を訴え、途方もない早朝から、ガサゴソと身を削るような音をたてて、紙袋に自分の衣類を詰めはじめました。   
「朝起きても、何もすることがない」というのが、その言い分でした。
 家を空ける度合いも、頻繁になりました。そのたびに、母を捜し回るだけでさえ、私は疲れはてました。おまけに、変な時間にインターフォンを押すということで、ご近所から苦情も来ました。そして、母が一人で外に出られないように、特製の鍵まで取り付けたのです。その代わりに、母が倒れそうになるまで、始終二人で街中を歩き回ったものです。
「特養老人ホーム」云々のメモの意味がようやく分かってきたのもこのころのことです。母の病名も、べつの病院で、痴呆症に加えて、「アルツハイマー性」が付くようになりました。私は区の福祉センターに駆け込み、利用できるかぎりのサービスを受けました。特養のデイサービス、ショートステイ・・・・それより何よりありがたかったのが、40代半ばの、これ以上できた人はいないというくらい、立派なヘルパーさんでした。
「おはようございまーす」週に二度、彼女の元気な声を聞くと、幸せな一日が始まりそうな気がしたものです。そんな日、安心して母を彼女に任せ、私は一人で、安くて、食べ放題のランチを食べに行きました。母のために作る老人食では、私の体はもう動かなくなっていたのです。
 ある朝、私はついに起き上がれなくなりました。けれども、朦朧とした意識の奥に、変な物音が聞こえ、何かが焦げ付くような、きな臭いにおいが漂ってきました。私は本能的に台所に走りました。そこで見たのは、まさに地獄の絵図でした。恐ろしい顔をした母が、玉葱やら人参を切り刻む傍らで、ガスコンロの上では鍋が炎を上げて焦げ付いていたのです。しかも、野菜は、切り刻むそばから、床の上に転げ落ちていきます。
「何で、こんなことするの!」
 二人きりで生活をするようになって、初めて私は母を怒鳴りました。そして、恥じ入りました。 母はおそらく私のために食事を作ろうとしたのに違いありません。
 再び、暑い夏を迎え、日に日につもる疲れの中で、私は途方に暮れていました。

24時間温かい介護』の文字に救われた瞬間

 ある晩、母を早々と寝かせ、冷房をめいっぱい強めに入れた、私のゴールデンタイムに、ふと、「学士会報」という名の、父宛の雑誌が目に留まりました。難解な学術雑誌で、普段は滅多に手にすることもなかったのに、その晩は、妙に気を引かれました。そして、パラパラと誌面をめくるうちに、アルツハイマー病についての論文を見つけたのです。しかし、腰を抜かすほど驚いたのは、記事の内容ではなく、2、3ページ読み進んだところで出会った、ロイヤルハウス石岡の広告でした。 
「24時間、やさしいヘルパーさんの温かい介護を!!」
 えっ、24時間も?世の中に、こんなうまい話ってあるの?
 ええ、本当にあったのです。これはまさに父の置きみやげです。父の遺言です。私はこの出会いを一生忘れることはないでしょう。
 最近、あるテレビ番組が、訪問介護を売り物にするベンチャー企業を特集しているのを見ました。狭い一室で、コンピューターに見入る、エリート中のエリートらしい社員たちと、その末端で、十分刻みでおむつを換えに走るヘルパーさんたちの姿が何とも印象的でした。コンピューターを操作する、そのエリート社員の、機械のように冷たいまなざしと、血相を変えて街を走るヘルパーさんの様子が、あまりも対称的でした。10分の間に、どなたか老人が倒れでもしたら、どうするのでしょう!私は思わずは背筋が寒くなりました。それと同時に、一刻も早くロイヤルハウスと出会えたことを、両手を合わせて、神様に感謝したい気持ちになりました。ロイヤルハウスのヘルパーさんたちは、壊れた人形のようになった母を、一人の人格を持った老人として、やさしく、大切に扱い、命を吹き込んでくださるからです。
 やさしい、 やさしいロイヤルハウスのヘルパーのみなさん、今後とも、温かい介護をよろしくお願いします。

2001/7/1 記

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